メジロの来る庭

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このシリーズ、だんだんと情感的になってくる気がする。
庄野さんの作品ではこれまで、気持ちをあらわす言葉にはきわめてシンプルなものが使われてきた。「おいしい」「うれしい」「かなしい」「ありがとう」。それが登場するだけで、読んでいる私たちの前に「ぽわん」とひとつの空間みたいな感情がわいて、文章の中の気持ちにさせる。そういう力を持つ。この本の中では、そういうあっさりとした気持ちの表現の力にさらに付け加わるかたちの、強い言葉がついているのがたまに目に付いた。

庄野さんの80歳の誕生日に、長女の(おなじみ)「親分さんとお上さん江」の手紙が届いたときのこと。いままでお世話になってきた御礼と、これからの健康を祈る手紙の文面のあとに、庄野さんはこう書く。


 長女はいい手紙を書いてくれた。読み終わって、感動している自分に気づく。ありがとう。


私はここでグッときてしまった!考えてみたら、庄野さんは「感動」というような言葉をあまり使わないのではないだろうか?「感動」というような大きな心の揺れをあらわす語句で、物事を簡単に表現してしまわない。でもここで、いつもの「長女はいい手紙をくれた」と「ありがとう」の間に「感動」が入っていて、私は驚くとともに、一緒に「感動」してしまったのだ。


それから、この本も「おいしい食べ物」がたくさん入っている作品だと思う。毎回思うのだが、庄野さんの作品に出てくる食べ物はどれもおいしそうだ。とくに私が、不思議に不思議に思ってしまうほど素晴らしくおいしそうに思えてしまう言葉がある。

 「ポテトサラダ」

この語句を庄野さんの作品で見ると、なんともおいしそうな魔法の言葉のように響いてくる気がする。自分はそんなにポテトサラダが好きなほうではないのに、だ。どうしてなのだろうか。


 おいしいパンなので、妻は近所の山田さんにさし上げた。山田さんは、
 丁度パンを切らしていたところなのといって大よろこびしてくれた。
 あとで夕方、ポテトサラダをこしらえて届けてくださる。
 山田さんのポテトサラダはとてもおいしい。


きっとこんなふうに、ただの「ポテトサラダ」じゃないからなんだろうなあ。


フーちゃんが高校に入学して吹奏楽部に入り、サックスをはじめた。
長女の次男に女の子の赤ちゃん(萌花ちゃん)が産まれ、初のひ孫誕生。
益膳の会が頻繁に行われる。
新しいテレビが入る。
大阪旅行が、東京駅からではなく新横浜からに変更。
初台のリハビリセンターに挨拶に行く。
アサヒビール神奈川工場で、妻の誕生日パーティーをひらく。


こういういつもと違うことも少しずつ混じりながら、それでもこの気持ちのよいシリーズは続いていってくれるのだろう。それがうれしい!とてもとても!

この「メジロの来る庭」は、少ししんみりした雰囲気で終わる。
 庭の萩の木が紅い花をつけているのに気づくところから、『夕べの雲』の始まりの、主人公がこの萩を見て「こんなに大きくなったのか」と言う場面を連想する。「こんなに大きくなったのか」というのは、そのまま時間のことを言っている。その、時間を思うときからさらに長い時間を経て、同じ萩を見て、そのころのことを思っている。
庄野さんは、「時間」というのが「今」という瞬間しかないということを、とてもよくわかっていらっしゃるように思う。頻繁に登場する、昔の思い出。近いものも遠いものも、すべてが「今」の思い出だからだ。そういうふうに点でピックアップして、「今」のことのように「古い今」を楽しむ。それは本当に贅沢だけど、本当の時間の過ごし方だとも思えてくる。
本当のというとちょっと違うか。裏技、という感じだ。かっこういい。