丘の明り

『丘の明り』 昭和50年 筑摩書房


昭和38年から42年にかけて発表された短編をまとめたもの。

 『冬枯』     昭和40年
 『行きずり』   〃 40年
 『まはり道』   〃 41年
 『つれあひ』   〃 40年
 『秋風と二人の男』〃 40年
 『山高帽子』   〃 42年
 『石垣いちご』  〃 38年
 『曠野』     〃 39年
 『蒼天』     〃 39年
 『卵』      〃 42年
 『丘の明り』   〃 42年

ひとつひとつ趣きが違っているけれど、共通しているものがある。


 ひとつの場所からまたどこか、別の場所に移って行く。移って行きながら、
 景色が見え、會話が耳に入る。そこで「時間」ということを考へる。ひとりでにさうなる。
 私は、さういうかたちで、自分がこの世に生きてゐるといふ感じを、確かめようとして
 ゐるのかも知れない。
 (あとがき)


庄野さんがこう書かれているように、ひとつのところに止まらず、少しずつ、移っていく文章だった。それは視点が、だったり、思いが、だったり、時間が、だったり、記憶が、だったり、人が、だったり、場所が、だったり、正気が、だったり。いろいろなものが少しずつその居場所を変えている。それが何も言わずに少しずつ提示されて、それを読むたびに、不思議な気持ちになる。自分ではひとつのところにジッとしていると思っていて、ふと気がつくと景色が変っているような。


『冬枯』
妻が駅で出会って一緒に電車に乗り合わせることになった女性とのやりとりを聞いて、2年前に家のある山の中で見かけた男女のこと、そしてある寒い晩に入った蕎麦屋のことに思いを馳せる、記憶の移り変わりが書かれている。

『行きずり』
家の近くの郵便箱へ手紙を出しに行く途中ですれ違った3人の男の会話から、別の日に駅のフォームで聞いた2人の不思議な男の会話、そしてある鰻屋さんにすっぽんを料理するところを見せてもらい、真っ暗な海の上に離れて並んだ脚立にひとりずつ乗って釣りをする様子の話を聞いたことを書いて終わる。

『まはり道』
昼間の電車の中で乗り合わせた人々の、微笑ましいような、ハッとするような会話。

『つれあひ』
6歳の甥の男の子をつれて、電車に乗り観光地のお城を見物しに行った一日を描いたもの。

『秋風と二人の男』
友人と飲みに行く約束をした男が、家を出るまでに巻き寿司を持って行くかどうかを、家を出てから上着を取りに帰るかを迷い、思い巡らす様子と、友人と会った後の会話。

『山高帽子』
電車の中での前後左右の人々の様子と会話、隣りの人と自分との会話、船の中の人々の様子。そして窓から見えた思い出の場所から、父や兄との思い出がよみがえってくる。

『石垣いちご』
戦争中に長兄が指揮していた陸軍の隊の砲台があった場所へ訪ねる話。同時に、海軍の予備学生だった頃の自分が同じ場所へ訪ねたときのことを思い出す。

『曠野』
大学在学中の試験休みに、中国に一人旅をしたときのこと。

『蒼天』
高校生の娘を連れて故郷の墓参りに行ったときのこと。そこから、会社の同僚が故郷に帰るために別れた日に、これから結婚生活が始まる主人公にした既婚者からの助言のこと、そして結婚直後の不安定な妻の様子と、新婚夫婦の日々を思い出す。

『卵』
「むつき、きさらぎ」と月の名前を歌で覚えようとしている子どもたちの様子から、折々の子どもたちの日常の中の面白い様子を思い起こす。

『丘の明り』
アメリカの民話「口まがり一家」の話。そして自分の家族が見た不思議な光の話。そしてその後、子どもたちに別々にその時の様子を聞く。


すべての短編が、ひとところに止まっていなくて、どこかしらに何かしらが動いているように感じる。例えば、今目の前にある光景からふと昔の出来事を思い出して、そこに急に話が飛んでも、今から昔へ、そして昔から今への時間の流れがちゃんとそこにある。ぺたぺたと張り合わせた「できごと」のパッチワークは、時間の奥行きも閉じ込めている。

それは時間のことだけではなくて、場所と場所の距離であったり、不安と希望の間だったり、記憶と記憶の狭間だったり、形は変わるが、奥行きがあることには変わりはない。


私がいちばん好きだった短編は、『つれあひ』だ。
のんびりと城の中を見物する、夫婦と甥の男の子。その、少し足を擦ってゆっくりと歩いている音が聞こえてくるような、歩調が感じられる。これにも、1日の奥行きがある。

それから別に、作品の中で好きだったところは、庄野さん自身だと思われる主人公の男性が、自分のやったことを後悔するところ。『山高帽子』で、船の中で何の気なしに毛布を2つ借りたことで、1つ分よけいにお金をとられたとき。


 彼は、要するに十圓玉を一つ、よけいに渡してしまっただけのことで、
 大したことではないんだと考えようとしたが、すぐにはさういふ切りかへが
 出來なかった。
 「何も花見をするわけでもないのに」
 とか、
 「定規か何かみたいに、毛布を繼足して、あんなかたちをつくらなくてもよかったんだ」
 とか、いろいろと彼は自分の愚かさを非難してみるのだった。


というところ。こういう考え方は、庄野さんの作品の中では珍しいと思う。いつも「仕方がない」「言ってみてもはじまらない」というようなことを書いているのに、と不思議になったが、もともとこういうネガティブな部分があって、だからこそ「仕方がない」と自分を仕向けているのかもしれない、と思い直した。そうすると、気持ちが素直な方向に伝わってくるのだ。勝手に嬉しかった。


もうひとつ好きなところ。
『曠野』で、中国を旅行中に南京蟲にひどく刺されたときのこと。


 熱い湯に首までつかると、汽車の中で南京蟲に刺されて赤くなってゐたところに沁みる。
 体中がひりひりとする。すると、それが私をしつこく攻めた南京蟲に對して仕返しをして
 ゐるやうな快さとなって
 「それ見ろ」
 と私は思ひながら熱い湯につかってゐた。


この、体に感じることのリアリティと、ユーモア。
無駄のない文章には、こういう副産物がついてくるので、嬉しい。