明夫と良二

明夫と良二 (1980年) (岩波少年文庫)

明夫と良二 (1980年) (岩波少年文庫)

すごく「のびやか」な本だ。

庄野さんは、ご自分がお好きな本を紹介する時や、フーちゃんのお習字をほめる時なんかに、よく「のびやかだ」と言う。
『クロッカスの花』の中でも、
 

 「自分の好きな文章は、どこかにのびやかなものがあって、
 生き生きしている人のが好きである」
 

と書かれている。
その「のびやか」が、存分に楽しめる本。高くて青い空の下で、思いっきり背筋を伸ばして、耳「きーん」と鳴った後のような、清々しさ。
とくに好きなのが、「とび上がる二人」という話。最初のページの、安西啓明さんの魚が反り返ってぶつかり合っている楽しい絵がぴったりな、とても生きのいい文章。夕食のあとの、家族の一服の場面。お兄さんの明夫と弟の良二が、食卓をどかして、居間で運動を始める。お父さん(井村)が以前使っていた膝かけを、腕に巻いて、それを使ってキックボクシングの真似事のようなことをしたかと思えば、2人で向かい合って走り、おなかとおなかをぶつけたりする。


  「何をしているの」
  と細君がいった。
  「おなかとおなかをぶっつけて」
  「違うよ。胸だよ」
  明夫がいった。
  「胸ぶっつけようとしたら、おなかが当たったの」


その光景をしばらく見ていたお父さんの井村は、アフリカの草原や、太平洋のどこかの無人島で、同じように胸と胸をぶつけている鳥を想像する。その場面が、なんだかとても美しかった。


美しいといえば、一番はじめの「つつじの花」という話もとてもきれいな作品だった。書斎で書き物をしているお父さん(井村)が、庭で落葉かきをしていた和子(長女)に話しかける。良二くんの運動会の話などをする。


  風が吹き込むので、戸を細目にして、顔だけこちらに向けた。
  「大きな目をしている」
  と井村は思いながら(すぐ目の前に子供の顔があるので)、
  和子の話を手帳に書きとめて行った。


この和子さんは、このとき結婚を間近に控えている。もう勤め先も辞めて、引越しと式を待つばかりのとき。そういうある日に、偶然、娘の顔をよく見た瞬間。親子って、お互いの顔を全然見ない時期がある。子どもと、大人の中間の時期。もちろん、顔をみて話したりはしているけれど、じっくり顔を見つめあったりしない。その時期を越えて、娘が子どもだったときのように、大きくなった娘をふと見たとき、あらためてその顔の様子に思うところがあったのだろう。そういう、結婚する直前の娘と、その父の、それまでの時間までも封じ込めた、とても美しい場面だと思った。


このように、気に入ったところを書こうとすると、すべての話に及んでしまうので、まとめよう。


メモ。元、長女の部屋の名前を「図書室」と呼ぼう、と決めるところが出てくる。
歯医者の先生(みやこわすれが咲くと仏様のお花をきらさない、と教えてくれた先生)が登場。

良かったところ。金物屋で、長女の新居で使う道具をそろえるお母さん(細君)の様子と、金物屋
夫婦の様子。明夫がたまらない声で「虫になりたいよう。虫になって、桃の中に入って、うんと食べたいよう」と、良二がまだ食べている西瓜を見ながら言うところ。

ぞっとしたところ。毛虫とむかでが出てくる話。私はたぶん、明夫くんよりも毛虫が苦手だ。だから、この「もくもく毛虫」の話などを聞くと鳥肌がたってしまうのだけれど、この話をしている家族みんなが、恐いのになかなか話をやめないでいるところが良かった。面白い。それで救われた。

やめないと言えば、家族のレコード鑑賞の話。全部聴いていると遅い時間になってしまうから、ここまでにしよう、と言ったのに、


  「もうひとつだけ、きくか」
  「そうですね」


 とか言って、なかなか切り上げることができない、という話。そばでは、良二くんが体を一直線にして寝ている。こういう心地のよい、なかなか切り上げることの出来ない時間、何かに似ている、と思ったら、私が庄野さんの本を読んでいる、その時間だった。そっくり同じ。本を閉じることが出来ない。
そしてすぐそばに、眠りのような心地のよい気持ちが、いつも控えているような、そんな時間。
こういう「のびやか」で、ずっと傍らに携えていたい本が、書店の店頭に、山積みで置かれるようになればいいのに。でも、あまりにみんなが読むようになると、ちょっと淋しくなるかな、なんて思って、ああ、私は、本当に庄野さんの本が好きになってしまったのだ、と一人でクスクスしていた。