鉛筆印のトレーナー

鉛筆印のトレーナー

鉛筆印のトレーナー

ずっと、本当に欲しくて欲しくて、手に入れた本。嬉しい。

なんてすてきなタイトルだろうと、ずっと思っていた。フーちゃんを題材とした小説。
この本の中で、フーちゃんは4歳から5歳になり、幼稚園に通いだす。

愛しい孫と触れ合う毎日。庄野さんは、フーちゃんの様子を、本当に美しく記録している。
私は何度も、ハッとするほどの美しい情景を、この本の中で見たように思う。

例えば、長男とあつ子さんのところに惠子ちゃんが生まれたとき。
病院で、ずっと会いたかった赤ちゃんと対面したときのフーちゃんの様子は、とても美しいと思う。
フーちゃんは嬉しくて、あんまり赤ちゃんの頭を撫でまわすから、お父さんに
「そんなにさわったらいけない」と注意される。
嬉しさとドキドキと、可愛いさと感動と、いろいろな感情が入り混じった表情をして、
ただただ赤ちゃんの頭を撫で回すフーちゃんの様子が想像できる。

それから、庄野さんの奥様(こんちゃん)といっしょに市場のおもちゃ屋へ行った帰り道。


 「葡萄畑の横の道へ来ると、ビニールの青いテープを張ったところがあって、
 一本だけ杭から離れて風に吹かれていた。
 フーちゃんは走って行って、そのテープにさわった。」


という場面は、おおげさかもしれないが、フーちゃんのその頃の可愛らしさや、人間味や、うまく言えないがすべてのものが凝縮していると思う。そして、美しい。
ほんのさりげない描写なのだけれど、写真のように、映像のように、いやそれ以上に、そのころの雰囲気や空気や、心の動きなどを、とどめる力のある文だと思う。そして懐かしくて、少しせつない。

まだある。フーちゃんが庄野さんの家に遊びに来たとき、押し入れの中で寝たがったフーちゃんのために、中に電気スタンドを入れてふすまを閉めてあげたところ。


 「暗くなって、恐くないだろうかと思うのに、平気でいる。妻がそっとふすまを開けてみると、
  電気スタンドの上から息を吹きかけて、スイッチのつまみをねじって、スタンドの明りを
  小さくしたり、大きくしたりしていた。」


これも美しい。何が美しいって、無心が美しいのだと思う。理由なんてなくて、ただそうしているのだ。子どもの時、そういう時間が永遠に続くように思われた。大人になることがどうしても信じられなかった。そんなことを思い出した。

フーちゃんのこと以外でも、美しく、そして面白い場面がたくさんあった。
例えば、いつも薔薇を届けてくれる清水さんの娘さんの、お結納の日。庄野さんの奥様は、北京ぎょうざを作って差し入れたのだが、その日の夕方。庄野さん夫妻の間で、


 「清水さん、今ごろ、『ほ』でしょうね」
 「そうだろう。本当に『ほ』だろうな」


という会話が交わされる。大きな行事が済んで、ほっとしている清水さんを思っての言葉。
「ほ」でしょうね、なんて使い方、本当に面白い。「ほ」の一文字で、感情が表現できるなんて、日本語ってすごいなあ。なんて思ったりした。そして、そんな会話ができる庄野さんご夫妻も。

それから、何度か出てくるのだが、フーちゃんの弟で、まだ1歳の春夫くんの傑作な描写。
フーちゃんの遠足についていくため、ミサヲさんに頼まれて庄野さんが春夫君を預かった日にも登場した。


 「いつものように庭へ来た小綬鶏と雉鳩を目ざとく見つけて、『あれを見よ』というふうに手を
  伸ばす。」


というもの。この描写が出てくると、私はいつも声に出して笑ってしまう。

この本で、フーちゃんは初めて宝塚の舞台を観に行く。幼稚園にも初めて行くし、いろいろな出来事に出会う。これから生きていく中での、いろんな「はじまり」の時期なのだろうな、と思った。
それがこんなに美しい形で残って。幸せなことだな。それを読める、私も幸せ。