クロッカスの花

クロッカスの花 (1970年)

クロッカスの花 (1970年)

横に線を引いて、心の中にしまって、いつまでも覚えていて、必要な時にはとり出せるように、そういうふうにしておきたいと思う文章が、この本の中にはたくさんあった。


「景色がいつまでも同じで、変らないと思うのは間違っている。変らない景色なんかないと私は思っている」

「実際、変らない景色なんかないということを、私たちは自分に云い聞かせなくてはいけない。それは、この世に生きていく上でのひとつの覚悟である」


就職活動が迫ってきていて、急にものものしく「自己分析」しなくてはならず、セミナーでノートをとったり、慣れない肌色のストッキングはいて焦っている私に、上記のこの言葉がつきささってきた。
人生のその時どきに、つきささってくる文章というのがあって、大学3年の今この時に、ふとこの本を手にしたから、偶然この言葉がつきささった。大学3年、21才のつきささり。

私はいつも、小さい頃から、学年が変わったり、クラスが変わったり、学校が変わったり、席が変わったり、前髪が短くなったりすることが苦手だった。ずっとそのままにしておきたく思っても、いつの間にか変わっているし、そうしなくちゃならない。
今だってそうだ。暴力的に月日が流れている気がする。
でも私は、今日図書館の窓から射し込む西日の金色に見とれ、イチョウ並木の葉が、黄色と緑のコーディネートになっているのを見て惚れ惚れした。
こういう一瞬のできごとを、次から次へと見つめ、惚れることが、この嵐のような時の流れを肯定させてくれるのだろうと思う。
私も、覚悟して前に進まなくてはならないのだ。


「書いた人がつまらないことを考えている時は、文章もつまらなくなる。文章がよくなるということはない」


「実のあるもの ―私の文章作法」の中で、「文は人なり」ということをとてもわかりやすく書いている。良い例は、良い人が、持って回った無駄な言い回しを排除して書いた素直な文で、悪い例は、そっくりそのまま上の私の文章のようなものである。つまらないことを考えている。


庄野さんは「明るく、さびしい」という文章の中で、ご自分の仕事のことを
「はかないことを書き綴っている」
と思うと書いている。そのはかないものが、はっきりとした形に残る書物になって、私たちに届く。でもこの本を閉じて、図書館に返却してしまえば、またはかない物へと帰っていく。私はさびしくてたまらなくなって、また次の本を借りに行く。