わたしの まちがいだった


※虫が苦手な人にはちょっと嫌な文章かもしれないです。


まだまだ暑いけれど、だいぶ秋らしくなってきたので、
公園で遊ぶ時間がまた増えてきた。
最近は娘と一緒に、とんぼが飛んでいるのを見るのが楽しい。
とんぼがよく来る小さな丘の上に立って待っていると、
びゅんびゅん飛来して、通り過ぎていく。迫力がある。
娘は「おんぼ!」と喜ぶ。
私は、庄野さんの本に出てきた、庄野さんが子どものころに
とんぼを捕まえるときに使っていたという
「らっぽ、ほーえ」
の掛け声を言ってみたりして楽しんでいる。


この間、娘とのんびり遊具で遊んでから、移動しようと
木の下を歩いていたら、私が心底苦手としている形の、しかも
とても大きな虫が(具体的に説明するのも嫌だ・・・)足元を歩いていて、
公園中に響き渡る声を挙げて、飛び跳ねて逃げた。
まだその場にいた娘は、なんだか楽しそうな(そう見えたと思う)母を見つめて、
ニコニコしている。もし娘が手に取ったら・・・踏んづけたら・・・
ヒヤヒヤしながら、大声と身振り手振りで娘を呼び寄せた。無事だったけど、すごく危なかった。
その後、ものすごくダメージを受けて帰った。


ダメージを受けたのは、苦手なものに接したことももちろん、
もっと自然と接する心を気軽にもてるお母さんになりたいのに、ということの
理想とのギャップにあらためて気づかされたからだ・・・。
でも苦手なものはしかたがない。自分でもなんでだかわからないけど苦手なのは、
なんだか悔しい。苦手じゃなかったらどんなにすがすがしいだろうに。
小学生のとき、季節になるとよく遭遇するので、そのときは学校を心底休みたかった。
そのことに関してだけ言えば、自然と接する可能性を絶つような、窓やドアのない、
人工的な家に住みたいと想像したものだ・・・。
そんなお母さんだが、娘には自然に限らず、いろんなものとニュートラルな心で
接する人間に育ってほしい。
今、「ニュートラル」という言葉が自分の中で流行っている。
(ダッフルさんに対してしか使わないが)


最近、寝る前に少しずつ読み返していた『明夫と良二』を読み終わった。
やっぱりすごく良かった。心がばたばた飛び跳ねるような面白くて幸せな気持ちに
なるところがたくさんあった。
しかしこの本の中にも、上記の私が苦手とする種類の虫が主題になっている話が
ところどころ出てくる。山の上に住む庄野さん一家にとって、虫はすぐ隣にいる
とても身近な存在。
身の毛もよだつ話なのだが、つい1行1句もらさず読んでしまう。
そして、その可笑しみも少なからず感じる。
苦手じゃなかったら、もっとニュートラルに楽しめるのだろうにと思う・・・
(しつこい)

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娘は1日1日どんどん大きく成長していく。
家事をしているとき、「手伝って」と言って、母のしている作業を真似させて、
その隙に仕事を進めようともくろむことが最近多くなったが、
洋服をハンガーからはずしたり、本やおもちゃを片づけたり、
娘のことを本気で「役に立った!」と思うときがあって、なんだか心洗われるときがある。
いつも大げさに「ありがとー!」と言うようにしているのだが、そのときは
「本当にありがとー!」と大声になる。

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娘は最近、雑誌のふろくだったパズルが好きになって、はまってやっている。
そこで、書店でパズルになっている本を探して購入。
そのとき、最近大好きなだるまちゃんシリーズの「だるまちゃんとだいこくちゃん」を
買うか迷ったのだが、結局パズル本を買って帰った。
そして家でやってみたら、娘にとってまだ少し複雑なのか、あまり遊ぶことができなかった。
こんなことなら、だるまちゃん絵本を買えばよかった・・・同じ値段なのに・・・と後悔。
でも、気を取り直して考えて、
「でも、これがあったから夕飯を少しの間スムーズに作れたよ」
「後悔、先に立たず!」
と声に出して言っていたら、娘がそのたびに
「ね!」
「うん」
と、わからないなりにぴったりとした合いの手を入れてくれて、すごく元気になった。


こんなふうに、ときどき娘と同じ背の高さになったんじゃないかと思うような
不思議な気持ちになることが最近たまにある。



子どもを産む前にも、産んでからも、よく子育てについての本やテレビ番組で
「子どもは子どもの人格や人生を持っているので、母親は自分の所有物や分身のように扱っちゃいけない」
「子どもは自分と同じように考えていると思っちゃいけない、思い通りになると思っちゃいけない」
「私はそうしない」
というような言葉をよく見聞きした。
そんなの当たり前だし、私はそういう母親になるぞ!と思っていたけど、
これも数多くの出産後の学びとして、そういう錯覚や思い込みは、当たり前のように日常に現れる。
生活の中でイライラする場面が必ず出てくるのは、そういうときだ。そんなの毎日ある。
だからみんな言っていたんだなあと思う。
すごく月並みなことを言うと、子どもと接すると、わからなかったことがわかる。
わかるつもりになっていたことがわかる。
そして、自分について知らなかったことがボロボロと出てくる。
全然見たくないけど、見なくちゃいけないことが。


そしてその上で、娘を1人の人間として尊重して接することの難しさと大切さを思う。
子どもを一人前の人として扱うとかいうフレーズ、いろんなところで見聞きしたけど、
当たり前に思っていたけど、こんなに難しいことだったんだと思う。
そしてそうありたいし、それが自然にできている人ももちろんいるだろうから、すごいなあと思う。


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娘は最近、記憶力がしっかりしてきて、だいぶ前のことを覚えていてよく指摘する。
しかも何回もする。
自転車置き場に止めた自転車から娘を降ろすとき、誤って、屋根のところに娘の頭を
軽くぶつけてしまった。2か月くらい前だと思うが、それを覚えていて、いまだにそこに行くと
屋根を指さし、自分の頭を指さし、「かーたん」(お母さん)と言う。
その都度、「そうそう、お母さんぶつけちゃったよね、痛かったよね、お母さんメメねえ」と言うと、
満足そうに「ね〜」と言って頷く。いつまで言われるんだろうなあ・・・と思いながら家に帰る。


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最近、ベニシアさんの番組をよく見ていることは先日書いた。
見ている私の近くでPC作業をしているダッフルさんは、この番組にたびたび登場する
「○○するのが、ベニシア流」
という言葉が耳に入ったようで、昨日娘が食事中に歩き回ろうとするのを制して
「座って食べるのがベニシア流」
とたしなめていたのが聞こえてきたので、笑ってしまった。


この番組のこと、言い忘れたが、 山崎樹範さんのナレーションがとてもいい。
普通すぎて何の変哲もなさそうなのに、誰も真似できないナレーションだなあといつも
不思議に思う。
あと、いろんなハーブや植物の名前が出てくるが、読み上げておきながら
「・・・これってなんですか」
と、タモリ倶楽部のテンションで誰かにきいているかもしれない山崎さんの姿が
何となく心に浮かんで、想像しながらそれこそほのぼのする。(いやし山ほのぼの)

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今日は夏の疲れか、3連休の疲れか、
(なぜ3連休は疲れるのだろう、とダッフルさんと首を傾げあった)
体調を崩しがちでへとへとになった夕方、ダッフルさんと娘がお風呂から出てくるのを
待ちながら、ふとテレビで流れていた「にほんごであそぼ」を見ていたら、
コニちゃんが八木重吉の「草にすわる」の詩を歌にしたものをウクレレでかわいく
歌っていて、なんだかハッとした。とても短かったけど、とても心が明るくなった。



わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる