野菜賛歌

『野菜賛歌』 1998年講談社


印象に残ったお話。

『じいたんのハーモニカ その後』
いろいろな本で登場する、一日の終わりのハーモニカのこと。毎日毎日、日課として、そのときの季節に合った曲を吹く。私はいつもいつも、そのことを読むと、なんて呼吸の合った夫婦だろう、とため息をつく。この世に、こんなに呼吸の合った男女が、しかも同じ国で出会い、結婚することができるなんて。奇跡のように思う。まあ、私はこのお2人を直接知らないのだから、そんなことを偉そうに言うべきではないと思うのだけれど、このハーモニカのことを読むたびに、そう思ってしまうのだから、しょうがない。最後に、庄野さんのハーモニカに合わせて奥様が歌を歌っているとき、吹いている庄野さんの顔がかゆくなるときがあるが、「私はハーモニカを放さずに、かゆいところをうまくかく」・・という言葉には、しびれた。二人の結婚生活そのものではないか。


『われとともに老いよ』
ロバート・ブラウニングの詩「ベン・エズラ法師」の第一行で、福原麟太郎氏の好きな言葉らしい。そして庄野さんは、自分は誰に向かってこの言葉を言うことが出来るかと考え、それは妻だ、と、静かに、あたりまえのようにおっしゃった。私は、庄野さんの作品(あくまで、庄野さんではなく、作品)が、私たち読者に向かって「われとともに老いよ」と言っているような気がする。私も思う。この本とともに、老いようと。


『野菜賛歌』
 やっぱりこれは、表題作にもなっている通り、名作だと思う。「野菜賛歌」というより、ほとんど「人生賛歌」といっても良いのではないか。だって、食べることは生きることであるから。とくに、大根おろしのところが良い。「大根おろしは汁も飲めるという人もいるが、汁をこそ飲むべきだと言わねばならない」という中野重治の随筆の引用。これを読んだ直後、夕食の準備で私は大根おろしを作ったのだが(ちなみにおかずは天ぷら。鯵がおいしかった)、そのついでに汁をちょっと吸ってみた。からかった。でも、「汁をこそ・・・」は、おもしろいと思う。


私の履歴書
庄野さんは、いつも世の中の出来事、自分が接する生活の中の物事、出会う人々、出会った人々の思い出の中・・・などに、「おかしみ」や「面白み」を見つけ出す。どんなことについて書かれたものにも、プッと吹き出してしまうことや、微笑ましいことが紹介される。それは、庄野さんの生き方だと思う。庄野さんの人生を見つめる視線だと思う。
それが幸せかそうでないかを決めるのだと思う。幸せを作るのだと思う。
「あとにのこるは、けむし一匹」
庄野さんの原点だという、ある絵本の終わりの言葉。この「おかしみ」が、庄野さんの中に、ずっと根付いているのだと思う。
私の履歴書」の最後の言葉「とぼとぼ歩くのが好き」が、庄野さんのこれまでの人生を象徴しているようにも思う。