庭のつるばら

庭のつるばら

庭のつるばら

 この『貝がらと海の音』以降の夫婦の晩年を描いた作品では、繰り返して述べる事柄が多い。
 例えば、「かきまぜ」のこととか、「カプリ島」のこととか、「英二伯父ちゃんのばら」のこととか・・・。それらが出てくるたびごとに、毎回説明がついている。
 私はそれが大好きだ。
 人間は、初めて出くわす物事も好きだけれど、繰り返しや、もう知っていることを何度も反芻することはもっと好き、というような性質があるそうだ。まあ人それぞれだろうけれど。

 でも、音楽だって映画だって本だって、好きなものは繰り返しみたくなるし、例えばスポーツ好きの人は、もう結果がわかっているにもかかわらず、スポーツニュースをいくつも見たがる。
 昔話なんかもそうだ。同じことを繰り返す。桃太郎は猿に出会ってきびだんごをあげ、犬に出会ってきびだんごをあげ、雉に出会ってきびだんごをあげる。子供はそういうのをとても喜ぶ。
 そういうふうに、私も「かきまぜ」や「英二伯父ちゃんのばら」などの繰り返しをとても楽しむ。雑誌などに連載されていたための配慮かもしれないが、庄野さんはおそらく様々なことを考えて推敲されているだろうから、きっと繰り返しの楽しみを考えていらっしゃるのかもしれない。
 この作品の中で、特に印象に残った事柄は、庄野さんの喜寿(数えで)のお祝いで、4家族が揃って伊良湖岬に旅行をしたこと。そして、いつも庄野さんにご自分で育てたバラを届けてくれていた清水さんが亡くなってしまったこと。
 旅行の方は、大人数での旅行が本当に楽しそう。台風の中とはいえ、みなそれぞれ食事をしたりお風呂に入ったり、お酒を飲んだりして、とてものんびりしている。旅行先のホテルにいると、のんびりくつろいでいるような気持ちと、緊張してそわそわしている気持ちが同居する。
 そういうことを思い出した。庄野さんは、この旅行がどれだけ嬉しかったことだろう。みんなが祝福をしている。
 清水さんが亡くなったことは、「悲しいお知らせ。」という言葉で始まる。全体を通してある淡々とした雰囲気はそのままだが、私はそこの部分だけ落ち窪んで見えた。というより、私の心が落ち窪んだ。一読者の私がそうなのだから、庄野さんの哀しさはどれほどだろう。力が抜けたと言われていたが。
 庄野さんの作品に出てこられる方は、読者のほうでも知り合いのような気がしてしまう。お顔もお声も存じあげないのに、いつも会っていたような錯覚に陥る。庄野さんが愛情を持って書かれているからだと思う。

 最後はいつも、明るい出来事で締めくくられる。バラの花が咲いたり、小鳥がやってきたり。この作品では、長女の息子(長男の和雄さん)の婚約が決まったところで終わる。
 本が終わってしまっても、先へ広がっているように見えるのは、そういった庄野さんの優しく明るい目線のおかげであろうと思う。